グランドホテル メトロポール

 ハノイのメトロポールホテルです。フランス統治時代の1901年開業の歴史のあるホテルです。Ngo Quyen 通りに面した建物は、基本的にその当時からのものです。向かい側の薄茶色の建物は、“ベトナム労働・傷病兵・社会問題省 (MOLISA)” で、この建物はフランスのインドシナ総督府の建物で1880年代に建てられたものです。隣には旧トンキン理事公館など、“大劇場(オペラハウス)” とともに100年超の建物が並び、この周辺は1900~10年頃から変わらない景色で、当時のパリの街並みを彷彿させると言う人もいます。
  メトロポールホテル、開業当時は “Grand Hotel Metropole” でした。当時インドシナ半島を統治していたフランスによって設立されました。当時、このホテルの運営会社がベトナム各地の観光開発にも乗り出し(勿論フランス人のためですが・・・)、サパやダラットなどのリゾート地の開発や、ハロン湾への遊覧飛行、ハノイ~サイゴン間の列車の食堂車の経営などを行っていました。

  ベトナムとフランス、ベトナムの人にはその思いの中にいろいろ屈辱的な事もあるかと思いますが、例えば、現在のベトナム語表記、現在のアオザイなど、フランスの文化が入って今の形あるいは今のベトナムの文化に通じるものがあったリ、ハノイの街の古いけど趣のある建物、人々に愛されるたくさんの街路樹、フランスが作ってベトナムの人の暮らしに融合してきたものがたくさんありますね。メトロポールは、ハノイの100余年の歴史の代表のような場所に思います。また、長い歴史の中で、その時々の世界情勢を覗くようないろいろな人が宿泊しています。外国に翻弄されたり、時には戦ったり、協調したり、助けられたりしながら、近代化~発展してきたベトナムの、その100余年の歴史を見てきた ”生き字引” のような場所です。(生き物でないので ”生き字引” とはおかしな表現ですが・・・)ホテル旧館のロビー横の廊下にメトロポールのその歴史を解説するパネルがあります。その時代々々の著名人が宿泊していて、チャールズ・チャップリンなどは有名ですね。ホテル内の喫茶室兼バーである "Le Club" にその名を冠したカクテルがあります。そうそう、2019年初めの ”米朝首脳会談” が行われた場所もこのメトロポールでした。

  インドシナ戦争の後、フランスが撤退した後は ”トンニャット(統一)ホテル” と名前が変わり、北ベトナムの国営ホテルになっていました。1992年、外国投資を受け入れるようになって、いち早くフランス資本が投資をし ”ソフィテル” グループ“ のホテルとなり、”ソフィテル・メトロポール・ハノイ” となりました。最近、すこし名前を変え ”ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ハノイ” になっています。”トンニャットホテル” の時代は、この古い建物のメンテナンスが行き届いていなかったようで、水回りが酷い状態、ドアや什器もガタガタいって・・・。一応 ”高級” ホテルではあったそうですが、とても胸を張れるものではなかったそうです。

  1967年、当時のTBSのニュース番組、”ニュースコープ” のキャスターだった 故 田英夫さん(のちの参議院議員)が、西側諸国のメディアとして初めて戦時下の北ベトナムを取材された時、ここを拠点にされていました。当時このホテルの中庭には ”防空壕” 造られていていました。田英夫さんのレポートにホテルの食堂(現在のメトロポール内 ”Le Beaulieu“ レストラン)の様子や、空襲警報が鳴って ”防空壕“ へ避難する様子などが出てきます。最近、中庭の工事をした時にこの ”防空壕” が発見され、現在は観光コースとして復元をされています。因みに、田英夫さんは、当時のベトナム戦争の報道は西側からの視点のみの報道で、両方からの視点で報道をしなくて片手落ちであるとし、当時簡単ではなかった北ベトナムへの取材を行ったそうです。その後、与党から問題視されTBSにも圧力がかかり 田英夫さんは ”ニュースコープ” から去ることになったそうです。また、田英夫さんは、日本のいわゆる ”ニュースキャスター” の先駆けとして知られています。この北ベトナムへの取材は、当時のTBSの今道社長(後にTBS会長、日本民間放送連盟会長)の強力な後押しもあったそうです。今道社長は、第二次大戦前後に当時の大阪商船(のちの商船三井)のベトナム支店の責任者として駐在されており、当時日本人会の会長をされていたそうです。(今の JCCI “ベトナム日本商工会” の大先輩ですね。)

  1973年 ”パリ和平協定" でベトナム戦争が終結となった際、日本大使館がハノイに置かれることになり、最初はこのメトロポールに “在越日本国大使館” が置かれました。2018年はそれから45年 ”日越外交関係樹立45周年” の記念の年でしたね。

  そう言えば、1995年に私の会社の本社のVIPが来た際、このホテルのエレベーターで ロバート・マクナマラさん と一緒になったそうです。ベトナム戦争が始まった時のアメリカの国防長官ですね。戦後初めてのベトナム訪問であったかと思います。ベトナムとアメリカの外交関係回復を前に、戦争のけじめをつけに来たとのことで、戦争当時のことを謝罪されたと聞きます。(でも、マクナマラさんは、国防長官退任後に “世界銀行” の総裁をされて発展途上国の発展に寄与されています。)同年 Lang Ha 通りに ”在ベトナムアメリカ大使館” が置かれ、ベトナムとアメリカの外交関係が回復しました。ベトナムにとってはこのようにけじめをつけることは結構大事なことで、その後ベトナムは世界有数の ”親米国” と言われるようになりました。(世界一の ”親米国” と言う人もいます。)ちなみに、メトロポールから遠くない Hai Ba Trung 通りに "American Club" という施設がありますが、そこはフランス統治時代までのアメリカ大使館跡地です。

  1995年頃、”高級ホテル” と言えば、”メトロポール” か、開業から日が浅い”ハノイホテル” くらいでした。(そのほかに”国営”の高級ホテルはいくつかありましたが、外国人が泊まれるようなクォリティではありませんでした。外国人には、”国営”ホテルより当時街に林立してきた新しい”ミニホテル” の方が快適でした。当時ミニホテルも US$100/泊 とっていましたが・・・)因みに、”ハノイホテル”は、1994年に当時の村山富市首相が宿泊されました。その後 当時512室のDaewooホテルがオープンしますが、それは1996年末のことでした。その頃には外国資本の大型ホテルが争って開業し、1997年頃にはびっくりするほど高級ホテルの宿泊料が暴落していました。(例えば、Daewoo ホテルは、開業時一番安い部屋でUS$199であったところ、1997,98年頃はUS$68で泊まれました。) そして、シェラトン・ハノイが1997年に開業しますが、何と2週間程度でクローズ、その後6年間休業状態でした。(1997年は”フランス語圏”のサミットがハノイで開催されました。シェラトンはその期間中のみオープンしたようでした。”フランス語圏”とは、要は旧フランス植民地ということですね。)

 ソフィテルとなってからのメトロポールホテルは、ホテル従業員のサービスのクォリティに定評があり、現在、一通りの世界チェーンの高級ホテルが軒を連ねたハノイですが、現在でもメトロポールがハノイの最高級ホテルと言ってよいでしょう。

  メトロポールは、私にとってハノイの “好きな場所” の最も上位にランクする場所です。’90年代から休日の昼食は必ずここの バー兼喫茶室へ行って数時間を過ごす大変居心地のいい場所です。”せっかくベトナムに来ているのに何故わざわざメトロポールなのか?” と日本人からは敬遠されがちなところかも知れませんが、品のあるしっかりとした対応とベトナム人の持つ ”ちょうどよい" フレンドリーさを併せ持ち、メトロポールで過ごす時間はベトナムならではの快適な時間です。

  先日の米朝首脳会談では、街中のあちこちが封鎖された状態で不便な数日でしたが、世界の注目の中、両首脳がメトローポールの中庭を歩く姿は、会談の結果や両者の考え方や立場は別として、メトロポールにとって誇らしく感じました。

2019年03月08日